笑いの飛距離

元・お笑い芸人のちょっとヒヒ話

「夢で逢えたら」で圧倒的な才能の差を見せつけられて絶望した野沢直子

野沢直子が「しくじり先生」で、あの伝説のコント番組「夢で逢えたら」を降板した真相について語っていました。

「夢で逢えたら」は、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、清水ミチコ、野沢直子の6人によるお笑いユニット番組です。1988年から1991年までの3年間、フジテレビの深夜で放送されていました。「お笑い年表」があるとすれば、間違いなく太字で表記される番組のひとつでしょう。

「夢で逢えたら」を降板してアメリカに行った本当の理由

2016年10月10日放送「しくじり先生 俺みたいになるな!!」(テレビ朝日)

担任はオードリー若林。
生徒は平成ノブシコブシ吉村、ハライチ澤部、伊集院光、米倉涼子、他。
講師は野沢直子。

1991年に「夢で逢えたら」を降板して、アメリカへ旅立った野沢さん。理由は「自分の芸を磨くため」という前向きなものでした。ほかにも多くのレギュラー番組を抱えていた彼女の決断に、当時の視聴者はとても驚きました。

ところが野沢さんは冒頭で、この行動が「しくじり」だったと答えます。

つまりアメリカで芸を磨いて「海外で勝負できる芸人になって1~2年で帰ってきます」という宣言が、大ウソだったと言うのです。思わぬ告白に、驚きを隠せない生徒たち。

野沢「皆さんに『すごい売れっ子のときに……』とか言っていただけるんですけども、私は自分のなかではですね、こんな感覚だったんですね、次のページ」
(教科書のページをめくる)
野沢「『圧倒的な才能の差を見せつけられ自分に絶望した』」
澤部「ええ~」
吉村「いやいやいや……」
野沢「ウッチャンナンチャンとダウンタウン、清水ミチコさんと、この5人でやってて、『もうダメだ』って思ったんですね」

だからといって「夢で逢えたら」で味わった絶望が、なぜ野沢さんを国外脱出という極端な行動に走らせてしまったのでしょうか。その最大の原因は、今までの人生で一度も挫折を経験したことがなかったからです。

野沢直子の人生初の挫折が「夢で逢えたら」

小学生時代はクラスの人気者で、いつも教室を爆笑させていた野沢さん。この頃からすでに「私、芸人になれるんじゃ?」と思うほど、笑いに関しては自信があったそうです。そして高校生のときに素人の漫才コンテスト番組に出たことで、芸人になろうと決心。声優をしていた叔父の紹介で、吉本興業(東京支社)への所属が決まり、東京吉本初の女芸人になりました。

すると芸歴4ヶ月でレギュラー番組をゲット。「今まで通りのノリでいけばなんとかなるっしょ!」という軽い気持ちでやってみたら、これが大ウケ。私の面白さはテレビでも通用するのかもしれない。芸歴2年目になると、レギュラー番組が3本に増えます。自信が確信に変わりました。

野沢「もうトントン拍子で、本当に、もう『私、絶対に面白いわ』と、全然行けちゃう、みたいな感じで仕事していきます、それで、こんな風にテレビの仕事をしていくようになるんです、次のページです」
(教科書のページをめくる)
野沢「『一切予習なし!』、全てその場の直感で行動してました、もうその場で思いついたことを口にすると」
澤部「すごいっすね」

まだまだ野沢さんの勢いは止まりません。なんと芸歴3年目で「笑っていいとも」のレギュラーに抜擢されたのです。そんな無敵状態のときに舞い込んできたのが、コント番組「夢で逢えたら」のオファーでした。

これまでの番組と同様、予習せずにその場のノリでやれば大丈夫だろうと考えて収録に臨みます。

野沢「いざですね、コントの収録が始まったらですね、私に対してスタッフさんがこんなことになりました、次のページ」
(教科書のページをめくる)
野沢「『1ミリも笑わない』」
(悲鳴があがる教室)
野沢「まず技術さんが、『ひょうきん族』やられてたスタッフさんだったんですね」
吉村「ゴリゴリの」
野沢「で、目がすごい肥えてたんです」
澤部「うわ~」

でも、他のメンバーが演じるコントには腹を抱えて爆笑するスタッフ。

勢いと運だけでテレビに出ている芸人と、下積みもあってライブなどで場数を踏んできた芸人、その実力差が如実に出た結果だと野沢さんは解説していました。特に差を感じたのが、コント台本のキャラクターを肉付けして広げる能力だったと言います。他のメンバーは自分なりに台本をアレンジして演じていたので、スタッフにも新鮮に映り、それで笑いに繋がっていたのです。

「井の中の蛙が段違いの才能を見せつけられた」瞬間でした。野沢さんにとって人生初の挫折でした。

「自分が一番面白い」から一転して「お笑いが怖い」

野沢「今まで自分が一番だと思っていた私は、初めてこんな感情を抱きました、次のページ」
(教科書のページをめくる)
野沢「『お笑いが怖い』と思いました」
吉村「いや、でもあるよな、これ……」
澤部「(右後ろに座る吉村のほうを向き)うん、確かに……」
野沢「本当に、怖いっていう感情をちょっと抱いちゃって、今まで本当に考えなしでノリだけでやってたんですけども、きっちり向き合って考えなきゃいけないんじゃないかなって」

しかし考えるようになったことで逆に、野沢さんの良さが失われていったのかもしれません。

野沢「無の境地でやったり、言ってたりしたことが一切……急に考えるようになっちゃったもんで、急にできなくなっちゃって、ひらめいたことを言ってたのが、ひらめかなくなっちゃったみたいな感じで、完全なスランプ状態」

芸人として下積みが全くない。だからイチから勉強する場所が欲しい。引き出しを増やしたい。でもスケジュール表は真っ黒で時間がなく、毎日仕事に追われて消耗していくばかり。そういった現状を変えるためには、今抱えている仕事を全部捨てて海外に行くしか方法はなかったのでしょう。

そして番組を降りてからだいぶ年月が経過したときに、野沢さんは「夢で逢えたら」の放送作家と対談する機会を得ます。

「夢で逢えたら」でプレッシャーと戦っていたのは野沢直子だけではなかった

野沢「もう時間が経ってたので、ようやく『実はあの番組やってたときに、私一人が全然ダメだったんで……悔しかった』みたいなことを、ようやく話をしたんですね、そしたらですね、他のメンバーについて、私の知らないこんなことを教えてくれました、次のページ」
(教科書のページをめくる)
野沢「『10円ハゲを作りながら、皆もプレッシャーと戦っていた』、で、まあ……そういう気持ちだったのは私だけじゃなくて、私を含めて6人のうち4人ぐらいが同じような気持ちで」
(言葉をかみ締める澤部)
野沢「皆の足を引っ張っちゃいけないみたいな感じで、一人は特に、10円ハゲ作りながらやっていたっていうことで」

この対談から得た教訓を発表します。

野沢「『どんな天才でも必ず悩み苦しんでる、悩まない人間なんていない』」

清水ミチコさんも「清水ミチコの20周年だからリップサービス」(2007年12月26日放送)という番組で、「自分は面白くないと落ち込んだ番組だった」と告白しています。野沢さんと同じ悩みを抱えていたわけです。

野沢「一応ですね、私が抜けるときに、やっぱり新メンバーを入れるかどうかっていうので、皆がちょっと会議してたんですけども、皆がこんなこと言ってくれたそうです、え~、次のページです」
(教科書のページをめくる)
野沢「え~とですね、『野沢がいつでも帰って来られるように、メンバーは補充せず、あいつの席を空けておこう』」
(胸打たれる生徒たち)
野沢「ちょっと言っててくれたみたいだったんで、こういう皆の気持ちが嬉しくて……すごい号泣になっちゃいましたね」

とはいえ、「井の中の蛙」は別に悪いことではない。自信を持つのは良いことだし、それが勘違いだと気付いたときには素直に認めて、勉強すればいい。最後にそう言って、授業を終える野沢さんでした。

もしかしたら「夢で逢えたら」でプレッシャーと戦いながら必死に笑いを作っていた日々が、野沢さんにとって一番の下積みだったのではないでしょうか。メンバー全員が今もなお第一線で活躍している姿を見ると、そう考えずにはいられません。そして、そういったメンバーの現役感こそが、「夢で逢えたら」を伝説たらしめている気がします。

さて、ここからは余談になりますが、野沢さんの授業でひとつ気になった点がありませんでしたか。「10円ハゲ作りながらやっていた」と語った場面で。そのメンバーとは一体誰なのか?

「夢で逢えたら」で10円ハゲを作っていたメンバーは誰なのか?

伊藤愛子『ダウンタウンの理由。』(集英社)

この本の「東京の壁」という章に、「夢で逢えたら」をやっていた当時のダウンタウンについて次のような記述があります。

見知らぬ土地で、見知らぬ人と、笑いを作っていく難しさ。そのもどかしく苦しい戦いの毎日に、松本と浜田は神経をすり減らしていったのだろう。ついには、ふたり揃って円形脱毛症にまでなってしまった

このあと浜田さんのコメントが続きます。

「毎日、気ぃ張って仕事してたし。その上、僕は東京に来る時に結婚したのに、世間に黙ってた時期があるから。いろんな精神的な疲れがいっしょになって、髪の毛に出てきたんでしょ。別に結婚なんてバレても良かってんけど(笑)、あえて自分から言うこともないやろって感じやったんで……。
松本は松本で、いろいろ気ぃ使(つこ)て疲れてたんでしょうね。だいたいいっしょの時期にハゲて、半年くらいは治らんかったん違うかなぁ」(浜田)

まさに野沢さんが述べた教訓どおりです。「どんな天才でも必ず悩み苦しんでる、悩まない人間なんていない」。