尾崎紀世彦「また逢う日まで」と、東京ロマンチカ「小樽のひとよ」。
このふたつの曲には共通点があります。それは元となる曲が存在し、その曲の歌詞を書き直して発売されたという点です。つまり歌詞を書き直したことで時代の空気をつかみ、国民的ヒットソングに化けたのです。
歌詞を普遍的な男女の別れに変えたらヒットした尾崎紀世彦「また逢う日まで」
2015年10月31日放送「東京ポッド許可局」(TBSラジオ)
パーソナリティはマキタスポーツ、プチ鹿島、サンキュータツオ。
テーマは「アンチ論」。
この番組では毎週、論を語ったあとに推薦曲を紹介しています。今回はマキタスポーツさんが、ズー・ニー・ヴー「ひとりの悲しみ」を取り上げていました。
マキタスポーツ(以下、マキタ)「さあ、これ聴いて、どう思いましたか?」
サンキュータツオ(以下、タツオ)「なんすか、これ? 曲聴いたことあるよ」
プチ鹿島「あるある」
タツオ「『また逢う日まで』でしょ?」
(マキタ笑)
タツオ「歌詞だけが違うじゃん! いいの?」
狙い通りのリアクションを引き出したマキタさんが疑問に答えます。
マキタ「歌謡曲ファンで、ちょっとマニアだったら知ってる話なんですけど、実はこれ、『また逢う日まで』のほうが、あとから発売されてるんです」
プチ鹿島「え~!」
タツオ「マジで!?」
ズー・ニー・ヴーが歌う「ひとりの悲しみ」の歌詞を阿久悠さんが書き直して、尾崎紀世彦さんに歌わせたのが「また逢う日まで」という曲だったのです。
ズー・ニー・ヴー「ひとりの悲しみ」は学生運動に挫折した青年の孤独を歌っていた
ズー・ニー・ヴーの「ひとりの悲しみ」が発売されたのは、1970年2月。ちょうど学生運動が盛り上がりを見せていた時代です。
マキタ「阿久悠さんが、学生運動に挫折した青年の孤独を詞にのせて、歌ったのが、このズー・ニー・ヴーの『ひとりの悲しみ』という歌なんです」
しかしヒットには至りませんでした。なぜなら学生運動というムーブメントは、若者による都会的なカルチャーという側面が強かったから。そう分析するマキタさん。
マキタ「その当時の日本っていうのは、もっと言うと、そんな都会的なカルチャーなんてことじゃなくて、日本全国がほとんど田舎みたいなところじゃないですか」
プチ鹿島「そうだね」
マキタ「『道路とかいっぱい作ってくれよ!』っていう時代だったと思うんですよ、そのときに若者文化の学生運動の挫折とか描いても、そりゃ売れるわけねえだろって話で」
1年後の1971年3月、尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」が発売されます。阿久悠さんが、歌詞の世界を「学生運動に挫折した青年の孤独」から「男女の別れ」に書き直して。
するとこの曲が100万枚を越える大ヒットとなります。その年の日本レコード大賞を獲得して、NHK紅白歌合戦への出場も果たしました。
マキタ「やっぱ日本って、政治よりも色恋とかのほうが盛り上がるんだなって」
タツオ「あ~、なるほどね」
マキタ「それこそ祭り事を和歌でやってたっていうような話もあるじゃないですか」
タツオ「うん」
マキタ「で、そこには色恋とか、男女のもつれみたいなものとか、そういったものをやったほうが、日本人のおおよそ大衆には、やっぱり向くんじゃないかと……ていう一番の好例だと思うんですよ」
タツオ「なるほど」
マキタ「都会的で、政治とかに夢中になってた若者の挫折の孤独とか、なんてことは当時の人には到底理解できなかったんじゃないかな?」
プチ鹿島「じゃあ、ふたりでドアを閉めてって、安田講堂のことだったんじゃない?」
(スタジオ笑)
マキタ「でもね、これね、推敲とか足し算をしたことによって、余計深みが出てるんだと思います」
プチ鹿島「そっか」
マキタ「ボクとキミの物語にして、これがまるで学生運動ってものに別れを告げていくかのような暗喩になってるんですよ、結果的に」
もちろんヒットした要因として、尾崎紀世彦さんの力強い歌声も無視できないでしょう。
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次は、東京ロマンチカ「小樽のひとよ」。
タブレット純は「玉置宏の笑顔でこんにちは!」でマヒナスターズに出会ってムード歌謡の虜になった
2016年6月10日放送「能町みね子 TOO MUCH LOVER」(ニッポン放送)
パーソナリティは能町みね子。
ゲストはタブレット純。
テーマはムード歌謡。
何かに異常な愛情を注いでいる人を招いて、ディープな話を2週に渡って聞いていく番組です。
タブレット純さんがムード歌謡に出会ったのは、AMラジオでした。子供の頃からラジオが好きで、特に「玉置宏の笑顔でこんにちは!」をよく聞いていたそうです。そして、ある日の放送で流れてきたマヒナスターズの歌に衝撃を受けたと言います。
タブレット純(以下、純)「自分のなかでは、究極の音楽に出会ってしまったという衝撃が」
能町「へぇ~」
純「そのムード歌謡、イコール、その最初に聴いたのがマヒナスターズというグループだったんですけども」
能町「はい」
純「このコーラスといい、深海に漂うクラゲのような……と言いますか、ふふふっ」
能町「ふふっ」
純「これが自分の内在するものに響いてしまったという」
ムード歌謡とは和洋折衷、つまり洋楽の要素が入っていること。タブレット純さんの解説によれば、そこが演歌との違いなのだそうです。マヒナスターズも、元々ハワイアンのグループでした。1週目は、マヒナスターズの曲をかけながらムード歌謡の魅力に迫ります。
フランク永井「有楽町で逢いましょう」のカバー、タンゴの要素を取り入れた「泣きぼくろ」、松尾和子とのデュエット「グッド・ナイト」、これらをタブレット純さんが各ラジオ局のDJのモノマネをしながら曲紹介していくのですが、そのクオリティの高さに感動する能町さん。確かにすごい似ていました。
2週目は、マヒナスターズ以降のムード歌謡がテーマとなります。
地名を前面に押し出した歌詞に変えたらヒットした東京ロマンチカ「小樽のひとよ」
2016年6月17日放送「能町みね子 TOO MUCH LOVER」(ニッポン放送)
昭和30年代はマヒナスターズの独壇場だった。しかし昭和40年代に入ると、ラテンの要素を取り入れた第2世代が台頭してくる。その先駆的な存在として、黒沢明とロス・プリモス「ラブユー東京」を上柳昌彦アナのモノマネで紹介するタブレット純さん。
そして、その次に選んだのが、東京ロマンチカ「小樽のひとよ」でした。
純「『小樽のひとよ』、まあご当地ソングという、特定の地名を歌った曲というのが同じ時代に、え~、美川憲一さんの」
能町「ああ、柳ケ瀬」
純「はい、『柳ケ瀬ブルース』というヒットがあって段々、特定の地域を歌ったご当地ソングのヒットの流れというのも同時にありまして」
能町「あ~、なるほどね」
純「それで、ロマンチカの『小樽のひとよ』が大ヒットするんですけども」
でも、ここでかける曲は「小樽のひとよ」ではありません。タブレット純さんが松本秀夫アナのモノマネで紹介したのは、東京ロマンチカ「粉雪のラブレター」でした。なぜこの曲なのでしょうか。
能町「これが昭和42年ですか?」
純「これは……42年ですね」
能町「となるとですね、私の両親が小樽出身なので」
純「あっ、そうですか」
能町「おそらく、故郷でこれを聴いていたんだろうな……という気持ちで、いま聴いていました」
純「この曲、『粉雪のラブレター』は最初のバージョンなんですけども」
実は「粉雪のラブレター」の歌詞を書き直して、小樽を全面に押し出したのが「小樽のひとよ」という曲だったのです。
純「(歌詞に)小樽の名所とかを入れることによって、さらに小樽を強調して、タイトルも小樽にしたことによって、大ヒットに繋がったという」
能町「そうなんですね」
その後、ドゥーワップの要素を取り入れたクールファイブなども台頭してくる。そういった時代の流れを説明していき、最後はクリス・ペプラーのモノマネで、ザ・キングトーンズ「グッド・ナイト・ベイビー」を紹介していました。
ムード歌謡への深い愛情とそれを支える豊富な知識、加えてラジオ向きな多彩なモノマネ、もうタブレット純さんの才能に魅了されっぱなしの2週間でした。これぞ芸。