笑いの飛距離

元・お笑い芸人のちょっとヒヒ話

野中広務はいかにして政界の中心人物へと登りつめたのか

元日に放送された「日本はよふけ」の特番ををまたなんとなく見返していました。

ゲストは元衆議院議員の野中広務(のなかひろむ)。自身の政治家人生をざっくばらんに語っていましたが、放送は年明けの夜中2時ぐらいでしたので、正月気分に浮かれては、眠気と戦いながら見ていましたね。

狭いソファに香取慎吾、野中広務、笑福亭鶴瓶、南原清隆の順に左から座り、お互いが体を密着させながら野中広務の政治人生を振り返ります。

遅咲きの57歳で衆議院議員に初当選

2008年1月1日放送「まだまだ日本はよふけ謹賀新年SP」(フジテレビ)

出演者は笑福亭鶴瓶、南原清隆、香取慎吾。
ゲストは野中広務(元衆議院議員)。

1925年京都に生まれた野中は、中学卒業後に国鉄へ就職。20歳で終戦を迎えた後、若干25歳で故郷である京都の園部町の町会議員に当選。52年に渡る長い政治生活をスタートさせた。

30歳で結婚。政治家の妻にためらいがあった彼女に「もう選挙には出ない、だから結婚してくれ」とプロポーズ。しかしその約束は守られることなく、33歳で園部町長に立候補して当選。町長を2期務めた後、京都府議会議員を経て副知事へ。

そして、1983年、国会議員としてはかなり遅咲きの57歳にして、衆議院議員に初当選。その後すさまじい勢いで政界の中心へ駆け上がる。2世議員でもなく、強力なツテも無い野中は、いかにして政界の中心人物へと登りつめたのか。

野中「副知事になって、副知事が終わったのが、4年間で終わったのが57歳ですよ」
鶴瓶「ちょうど僕の歳なんですよ」
香取「へ~」
南原「はぁ~、そうですか」
野中「そのときに選挙になって、そして竹下元総理が『おい、お前出て来い』と、『何言ってるんですか、私は57(歳)ですよ』と」
鶴瓶「俺の歳やな、57で、中央に出て来いと」
野中「『今から出てどうするんですか?』と言ったら、そしたら、『いや、俺はお前が町長になったときに、島根の県会議員から衆議院議員になって、おかげで建設大臣や大蔵大臣やらせてもらった』と、『けれども今、周囲見てると、だんだん俺やお前みたいに、地方の本当の苦しみや痛みを知った人間が居らなくなってた』と、『ず~っと底を覗いてみたら怖いんだ』と、『だから、お前のような何もかも経験してきた人間が出てきてくれなきゃ困るんだ、だから歳のこと言うな、出て来い!』」
鶴瓶「それで57で、中央に出て行きはったんや」

57歳の新人議員をあの政界の暴れん坊が見ていた

野中「ハマコー(浜田幸一)さんが建設委員長で、私は建設委員だったんです、で、ハマコーさんにね、京都は遅れとるから質問させてくれと」
鶴瓶「ええ」
野中「したら『ああ、君はよく俺のに出席してくれるからやれ!』と言って、やらせてくれたんです、で、最後終わったらハマコーさんがね、『委員長として特に申しおくことがある、今、発言された野中委員は、本委員会において一番出席のよい委員だ、よって、どの局長も野中さんの言われたことを全てやるように!』、委員長として申しおくと会議録に載っとるよ」
(スタジオ笑)

当時の委員会はひどく、質問はあらかじめ決まっていて、出席する者も少なかった。だが、地方から出てきた新米議員である私が変えられるのは、委員会に座り続けることである。それが最初の決断だった、と語る野中。

政治家に必要なのは運と根性と努力

鶴瓶「それもやっぱり、引っ張り上げるひとつの要因になる可能性はありますよね」
野中「あるんです、で、それがね、やっぱり事務局の連中が、1時間に1回ずつ、委員席に座ってる時間をチェックしてるんです」
鶴瓶「あっ、あの人何分座ってんねんっていう」
野中「それがずっとあって、今度はあの、電電公社からNTTに変わるときに、出席のいい奴を理事にせないかんというんで、私は当選して4ヶ月で建設委員会に居りながら、逓信委員会の理事になったんです」
鶴瓶「ほぉ~」
野中「やっぱりね、居直ってやっとたのが認められたわけです」
鶴瓶「早かったでしょ、57で、ぐんぐんぐんと」
野中「いや、これはやっぱりね、運と、根性と、努力です」
南原「運と根性と努力」
野中「だから運が良かった」

運が良かったことで他に何があったかを聞き出す鶴瓶。

細川連立政権との戦い

野中「ひとつ運が良かったのは、私自身は京都で、野党生活やっとったでしょ」
鶴瓶「あ~、そうですね」
野中「そうすると、宮沢内閣のときに、小沢さん達が自民党を終わって、そして、細川さん達と一緒になって、細川連立政権が出来ました」
鶴瓶「あ~、あのときですね」
野中「そのときに私は、あの~、京都で野党で戦った男だから、野党で戦う予算委員会の理事になれって言われた」
鶴瓶「ほほぉ」
野中「我が意を得たり、と思いました」

結果、8ヶ月の短命で終わった細川政権。首相であった若きリーダー細川護熙について聞かれると、

野中「後から考えたら、気の毒だったな~、と思ってね」
鶴瓶「ふっふっふっ」
野中「たまに京都で……陶器を、あの人伊豆のほうでやっておられたりするから、私もそっと覗きに行ったり」
(スタジオ笑)
南原「覗きに行ってるんですか?」
鶴瓶「それ行かはるんですか!細川さんの、気の毒だなと思って」
野中「ええ」
(スタジオ笑)
南原「そっと覗きに」
野中「お会いして」
鶴瓶「あ、お会いして」
香取「へぇ~」
南原「そういうとこがいいですね」
鶴瓶「そこは、すごいほんま、そうやねんて」
野中「そりゃまあね、こっちは立場が違いますから攻撃しますけれども、ひとりの人間同士になれば、やっぱあの人は気の毒だな~と、思いますよ」

1994年、村山内閣の自治大臣に就任した野中。

1995年1月17日、死者6434人を出した未曾有の大災害「阪神・淡路大震災」、さらに、1995年3月20日「地下鉄サリン事件」と、自治大臣として政府の対応を陣頭指揮。その野中に今も残る思いとは。

野中「このときに、やっぱり国家の危機管理が足りなかったと、いう責めはあります」
鶴瓶「うん」
野中「だから、まあ……今年も行くと思いますけど、1月17日は必ず献花に神戸まで行って、そして、亡くなった6千人余りのみなさんに申し訳ないと思って、献花してるんです、で、3月20日の地下鉄サリン事件が霞ヶ関でありました、このときは必ずまた、夕方人が居らんときに、地下3階に設けられた祭壇のところへ、今年まではずっと献花に行きました、まあ……自分の足が続く限りは、こういうことで亡くなったり、傷ついたりした方、やっぱり私のせめてもの責任として」
鶴瓶「それはいちいちね、言うことじゃないかも分からないけども、言って下さい」
野中「いやいや」
鶴瓶「行ってることが、あの~、やっぱり……すごいですよ、それは、そのとき自治大臣をやられたから、やっぱ気持ちの上でずっと責任を感じておられるんでしょ?」
野中「そりゃそうです」

1998年、小渕恵三が自民党総裁に。

野中に思いがけない大役が回ってくることとなった。総裁選から1週間後の1998年7月30日、組閣発表の当日、小渕総裁は野中を呼び出して言ったという。

官房長官をやって欲しい

それは首相の女房役である官房長官への就任要請であった。しかし「そんな資質はありません」と、野中は頑として首を縦に振ろうとはしなかった。すると、小渕恵三は「頼む、小渕恵三が頼むんだ、やってくれ」と土下座(再現VTRでは)。

鶴瓶「小渕さんと、まああの、官房長官になってくれと言われた瞬間がありますよね、あれはおいくつの時ですか?」
野中「(斜め上を見据えて)67……ですか」
鶴瓶「だから政界に入られて10年」
野中「そうですね」
鶴瓶「ですよね」
野中「いやまあ、結局は、あの人より私は、ひとまわり上なんですよ」
鶴瓶「あぁ」
野中「で、『あんたは俺の持ってないもんを持ってるんだから、頼むからやってくれ』と言われた、で、上手いことしてあってね、そう言って小渕さんが頭下げてね、『もう手上げてください』言うとるときにね、電話がかかってきた」
鶴瓶「うん」
野中「で、『あ、君だ』って、そしたら竹下さん(竹下登)、『おい、小渕が頼んどるんだろ、運命だと思ってやったれ』」
鶴瓶「ふっ」
南原「どこで聞いてたんですか?」
(スタジオ笑)
鶴瓶「それはす……すごいな~」
野中「これはもうできちゃってると」
香取「できちゃってると」

こうして野中は、内閣官房長官に就任したが、日本はかつてない危機に直面していた。

相次ぐ金融機関の破綻、そして、北朝鮮によるミサイル発射等で国政はまさに、一刻の猶予も許されない状態であった。しかも自民党は衆・参両院で過半数割れしており、国会で法案を通すこともままならない。

このとき野中が真っ先に動く。「小沢さんにひれ伏してでも協力をお願いしたい」。1992年の自民党分裂以来、長らく対立関係にあった自由党党首・小沢一郎と連立政権を組むという、誰もが驚く作戦に打って出た。

老兵は死なず―野中広務全回顧録 (文春文庫)

老兵は死なず―野中広務全回顧録 (文春文庫)

しかし混乱は続く。2000年5月14日、突然の小渕首相の死。

続く森内閣で自民党幹事長に就任した野中は、野党の内閣不信任案に加藤紘一らが同調しようとした「加藤の乱」を猛然と鎮圧。そして、野中広務は、いつしか永田町でこう呼ばれるようになった。

影の総理

鶴瓶「森総理のときですね、森さんも来られたんですよ、森さんもここへね」
野中「ああ、ああ」
鶴瓶「会うまでそんな好きやなかったのに」
南原「あっはっはっはっ」
鶴瓶「あの人もね、会ったらまた、おもろい人でんな、ふっふっ」
野中「座持ちが上手いんですよ」
鶴瓶「座持ち上手いですね~、あの人、もう好きにならすねんて、でも支持率は9%ぐらいになったんですって」
野中「そうですよ」
鶴瓶「そのときに居られたんでしょ?」
野中「幹事長でした」
鶴瓶「あのとき、裏でどないしてはりましたん?」
野中「いや~、もういい加減にしてくれと」
(スタジオ笑)

2001年4月、小泉純一郎内閣発足。

国民的人気を背景に、郵政民営化などのさまざまな改革に着手。そのやり方に野中は「独裁者ですよ」と異議を唱えたが、そんな野中たちを小泉は「抵抗勢力」と呼んだ。そして、野中は抵抗勢力の一番手として憎まれ役となった。

野中「小泉改革は、あの~改革と、小泉さんは抵抗派というレッテルを貼りました」
鶴瓶「うん」
野中「小沢さんのときには、改革派と守旧派というレッテルを貼って、選挙制度を変え、政党が税金から補助金をもらう、金貰うと、今『政治とカネの問題』が問題になってますけど、あれは選挙制度の小沢さんの改正と、そして、それについでにやね、税金から楽に政党に助成金をもらうと、三百数十億、このふたつがセットだった、だから私共は、小選挙区になったら、これから人材が活用出来ないし、国民に選択肢がなくなる」
鶴瓶「うん」
野中「ひとつの選挙区に1人ということになる、そうしたらもう、お父さんが政治家やって、後援会が強けりゃ、今度はお父さんが病気になったら息子が出る、その孫が出る、こんなことになってきたら、ほんとに選挙の制度っていうのは、人材を活用することが出来なくなってくる、そして、政党が楽に税金から直接助成金をもらう」
鶴瓶「うん」
野中「こんなことになったら、必ず将来、『政治とカネの問題』が問題になってくると、言うて反対した、そしたら我々は守旧派と言われて攻撃を受けた、マスコミからも攻撃を受けましたよ、けど、今日になったらね、いや~、弁当代をどっから払とったとか、水道代をどっから払とったとか、政治とカネの話ばっかりでしょ」

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが勃発。2003年3月21日、イラク戦争開始。アメリカの武力行使に支持を表明した小泉首相。テロ対策特別措置法成立の瞬間、野中は席を立ち、国会を後にした。

2003年9月、小泉純一郎に変わる新しい総裁候補の擁立を決意するが、仲間であるはずの橋本派の議員が次々と小泉支持を表明。このような厳しい情勢の中、野中は後世まで残るであろうこの言葉を吐くこととなる。

毒まんじゅうでも食らったんじゃないか

そしてこのとき、野中の胸にはある決意があった。政界引退。

この決意は他の政治家には知らされず、ある人にのみ知らされた。野中が決意を語る電話先の相手は、他ならぬ妻であった。たった1分の妻との電話、結婚する際に交わした「もう選挙には出ない」という約束は、48年後にようやく守られたのであった。

政治を語れるほどの知識もないですし、野中広務という政治家をどう見るのかを述べるためには、まず私が十分に勉強しなくてはならないでしょう。こういう番組でちょっとずつでも関心を向けられたらいいのかなと思った次第です。