笑いの飛距離

元・お笑い芸人のちょっとヒヒ話

ウォークマンでYMOを聴きながら歩けば東京はTOKIOに早替わり

「芸人としておいしい」。

お笑い好きの方ならば、とても馴染みのあるフレーズだと思います。少し前のネットニュースで、WEBのテレビ番組表で起きた誤表記が取り上げられていました。なんでも「川上哲治氏お別れ会」とすべきところが、一時的に「出川哲朗氏お別れ会」となっていたそうです。聞いた瞬間、思いました。「出川さん、おいしいな……」と。

ところで、この「おいしい」という表現が味覚以外に、「メリットがある・都合がいい・お得な状態」などを指すようになった経緯を知っていますか? 私は、恥ずかしいことに最近まで知りませんでした。あるテレビ番組を見るまでは。

80年代カルチャーの重要人物・コピーライター糸井重里

2013年11月9日放送「80年代の逆襲『宮沢章夫の戦後ニッポンカルチャー論』」(Eテレ)

講師は宮沢章夫(劇作家)。
生徒は風間俊介、他。

テクノポップからお笑いまで80年代を代表するカルチャーを掘り下げていくなか、「原宿セントラルアパート」という建物が登場します。当時はここに多くのクリエイターが集い、流行発信の場として機能していたそうです。

宮沢さんは、81年の雑誌『an・an』で特集された「セントラルアパート物語」を参照しながら、重要人物である糸井重里さんを紹介します。

宮沢「なかでもここで重要なのは、糸井重里という人物ですね、コピーライター、が特にこの時代から注目を浴びた、それがコレですね」

ディスプレイに西武百貨店の広告が映ります。そこには糸井重里さんが考えたキャッチコピー「おいしい生活」の文字が。

宮沢「この当時、西武デパートのある偉い人がですね、語っていた言葉に、『私たちは物を売るんじゃない、何を売るのか?というと、情報を売る』って言った、どういう意味かというと、例えばお皿1枚がありますよね、そのお皿1枚をデパートで買うことによって、それが自分の生活の中にあるっていうことは、この皿に何か情報が書かれているんですね、『こういう生活がありますよ』っていう情報が」

冒頭の「芸人としておいしい」。この表現方法は、80年代の糸井重里さんの功績によって定着したんですね。

そして、このような西武百貨店の広告をはじめとするセゾングループの活動は、「セゾン文化」と呼ばれていました。これもまたラジオで得た知識なのですが。

東京大学「80年代地下文化論」講義 (白夜ライブラリー002)

東京大学「80年代地下文化論」講義 (白夜ライブラリー002)

「おいしい生活」セゾン文化がもたらしたもの

2013年11月29日放送「荒川強啓 デイ・キャッチ!」(TBSラジオ)

パーソナリティは荒川強啓。
アシスタントは片桐千晶。
金曜日レギュラーは宮台真司(社会学者)。

金曜日の「デイキャッチャーズ・ボイス」。担当は、社会学者の宮台真司さん。

荒川「宮台真司さんのデイキャッチャーズ・ボイス、今日のテーマこちらです」
片桐「『おいしい生活』セゾン文化がもたらしたもの」
荒川「『おいしい生活』と言いますと、糸井重里さんによりますセゾングループの西武百貨店の、あの名コピー、え~、今日は先日亡くなりました堤清二さんが作り上げたセゾン文化についてお聞きしたいと思います、セゾングループは特に70年代から80年代にかけて、出版・音楽・演劇・美術など様々なジャンルで、セゾン文化と呼ばれるムーブメントを巻き起こしました、で、宮台さん、早速伺いたいんですが、セゾン文化、これ一体何だったとお考えですか?」
宮台「ありとあらゆるですね、今日(こんにち)の文化的動きの出発点です」

セゾン文化以前の状況から宮台さんは話し始めます。

宮台「まずですね、セゾン文化の出発点、つまり堤清二さん、もちろん世代的には上の方だけれども、やはり60年代の学園闘争の時代に出発点があるんですね」
荒川「はい」
宮台「で、学園闘争の時代は日本だけではなくてどこの先進国でも、この世に、つまりこの現世にユートピアを実現しようとしたんですね」

その楽園をキューバや北朝鮮に求めたと言います。ところが、

宮台「大体共通して69年に学園闘争が挫折をして」
荒川「うん」
宮台「で、69年から70年にかけて、その地上の楽園だったはずのところが実は大したことがない、ていうのがどんどん明るみになり、え~、ここではないどこかを地上に求める動きが一挙にしぼむんですね、それと入れ替わりに、60年代末、70年代頃から出てくるのが、日本でいうアングラっていう動きで」
荒川「あ~」
宮台「ここではないどこかをですね、現世ではなくて観念の世界の中に探すというもので」
荒川「アンダーグラウンドですね」
宮台「そうです、『天井桟敷』であり、あるいは『状況劇場』であり、まあ、今の小劇場ブームの出発点になるような様々なブームですね、60年代末がアングラだと思ってらっしゃる方多いけど、実は70年代前半がアングラの時代です」
荒川「はい」
宮台「さて、しかしですね、ここではないどこかを観念の世界に求める動きは、70年代半ばに至るまでに、やっぱりしぼむんですね、それはどうしてなのか?というと、セゾン的なモノが出てきたからなんです」

宮台さんは、自身の体験を交えながらセゾン文化を解説します。

セゾン文化が作り出したここを読み替えるシャレ

宮台「73年にですね、当時、渋谷職安通り、あるいは渋谷区役所通りと呼ばれていた、今で言うとソ○プランド街です、そこが、公園通りと名を変えて、73年に『パルコ』がオープンしたんですね」
荒川「はいはい」
宮台「で、いわゆるオシャレスポットという風に皆さんが考えていらっしゃった」
荒川「(力強く)うん」
宮台「ただですね、これ、僕は71年からですね、中学に通って、あの通りを出入りしてますから、僕らよく知ってるわけ、ちょっと前まで卜ルコ風呂街、それがオシャレな公園通り、ね、つまり簡単に言うと、お笑いなんですよ」
荒川「うん……」
宮台「つまりこれはね、シャレなんです

まだ合点がいかない荒川さん。

宮台「ここではないどこかを探すのではなくて、ここを読み替えることこそが、僕たちがこれから歩む道だというですね、そういう新しい方向性の指し示しが、あったということなんんです」
荒川「あ~」

そういった動きは同時多発的に世界中で起こったそうです。

宮台「同じような流れが世界中にあったんですが、日本ではまずセゾンって形を取って、表に現れたんです、例えば!」
荒川「うん」
宮台「公園通りに編集部もありましたけど、『ビックリハウス』っていうね、これは60年代のパロディカルチャーのリソースを使いながら、シャレるんです」
荒川「は~」
宮台「ここを読み替えのシャレを展開する、あるいはね、あの~、そこで細野晴臣さんも書いていらしたけども、常連執筆者であったけども、79年に『SOLID STATE SURVIVOR』っていうですね、有名なヒットアルバムを出すでしょ」
荒川「うん」
宮台「で、これも、当時『ウォークマン』が出たばかりだけれども、この汚らしい東京もね、ウォークマンでYMOを聴きながら歩けばTOKIOに早替わりっていう読み替えなんですね、つまり、これもシャレなんです」
荒川「うん」
宮台「つまり、公園通りも、ビックリハウスも、YMOも、全部シャレだったんです、僕らはシャレとして公園通りに関わってきた」

YMOのアルバム「SOLID STATE SURVIVOR」の収録曲に、TOKIO(トキオ)と連呼する「TECHNOPOLIS」がありましたね。

シャレからオシャレへ

宮台さんの言うシャレに関して、荒川さんが率直な疑問をぶつけます。

荒川「オシャレじゃないの?」
宮台「後続の世代にとってはオシャレになっちゃったんです、なっちゃったんです!」
荒川「へ~」
宮台「つまりね、僕らにとっては、あえてする読み替えであり、戯れ(たわむれ)だった、シャレだったんです」
荒川「うん」
宮台「シャレが、オシャレになってしまったんです、オシャレになった時期は『POPEYE』を見る限り特定できます、1977年の10月なんです、秋から一挙にシャレがオシャレに変わっていくんですね」
荒川「はは~」

そうなると、どうなるのでしょうか?

宮台「デートカルチャーや性愛カルチャーっていうのは、若い人を圧迫しますよね、『あ~、自分には無理』とかっていう風にして、逃げ道を探していることがある」
片桐「うん」
宮台「それで、77年の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』ブーム、これを当て込んで、『OUT』、『アニメージュ』、『ファンロード』というね、アニメ雑誌が出て、それを母体にして盛り上がっていったのが、『おたく』だったんです」
荒川「うん」
宮台「つまりね、おたくとセゾン文化っていうと一見関係ないように見えるけども、シャレからオシャレへ、という流れを通じて、あの~、若い人といえばクリスマスにね、ホテルを予約して、こういうプレゼントを贈ってみたいな、そういうイメージの出発点を構成することで、おたく的なモノも作り上げていくし」

「セゾン文化」と「おたく」が繋がりました。

荒川「じゃあ、セゾン文化が目指していたモノではない方向で……」
宮台「と言うよりも、こういう風に考えたらいいですね、ここではないどこかはもうない、だからここを読み替えよう、ここはシャレでしかないんだ、で、これはね、今だったらオーギュメンテッドリアリティ(拡張現実)だよね、あるいは、中沢新一さんの『アースダイバー』で、つまりね、楽園をどこかに探すんじゃなくて、ここを楽園化するしかない、しかし、しみったれてるぞ現に、じゃあどうしたらいいんだ?っていうときに、あえて見立てるとか、読み替えるってことが大事でしょ」

そもそも後続の世代は、なぜオシャレと勘違いしてしまったのでしょうか?

オシャレカルチャーがマジガチな故に、おたくという逃げ道を生んだ

宮台「それが知恵であるために必要なのは記憶なんですよ、ね、僕たちはちょっと前までここではないどこかを探してたけど……難しかった、だからここを読み替えよう、という風に僕ら記憶があったから思えたけど、そこでシャレた様々なですね、ムーブメントが、後続の世代は記憶がないので、『そうか!オシャレになんなきゃいけないのか』っていう風に受け取って」
片桐「うん」
宮台「いわゆるオシャレカルチャーが、70年代末からブワーっと広がるってことに、なったわけ」
荒川「うん」
宮台「このオシャレカルチャーっていうのは僕に言わせると、マジガチなんだよね、シャレっていうのはマジガチじゃなくて戯れなんですよ」
片桐「うん」
宮台「戯れは強迫的じゃないけど、マジガチは強迫的でしょ、つまりobsessive(オブセッシブ)でしょ、だから、おたくという逃げ道が生まれるわけ」

時間が迫ってきて、結論を急ぐ荒川さん。

荒川「ってことは、セゾン文化は良くないってことですか?」
宮台「違うんです、あのね、歴史は誰かが1人で主体となって、あるいはイチ企業が主体となって作り出すモノではなくて、転がっていくもんなんですね」
荒川「うん」
宮台「転がっていくうちにゴミが付いたり、枝葉が出たりする、そういうモノとしてある、で、その経緯をよく知らないと、実は自分は真面目であったつもりで、いわば歴史の枝葉部分に踊らされて翻弄されたことになってしまうわけです」

時間もなくなり、まとめに入る宮台さん。

宮台「元々シャレるってこと、つまり堤清二さんがお出しになったシャレるってことは、どういう方向性だったんだろうかってとこに戻って欲しいんです」
荒川「あ~」
宮台「そうすると、堤さんの、あるいはセゾン文化の元々の意味を、僕たちが理解することで軌道修正を逆にできる、セゾン文化が悪いんじゃない、セゾン文化を僕たちは誤読をしたということを問題にしているわけです」
荒川「あ~、そうか~」

10分で話せるテーマではないと宮台さんは言っていましたが、それでも私の知らないことばかりで、とても刺激的で勉強になりました。

そういえば、最初に紹介した「80年代の逆襲『宮沢章夫の戦後ニッポンカルチャー論』」で、細野晴臣さんがこんな発言をしていました。

クラフトワークは鋼鉄のコンセプト、ではYMOは?

2013年11月9日放送「80年代の逆襲『宮沢章夫の戦後ニッポンカルチャー論』」(Eテレ)

インタビューを受ける細野晴臣さん。YMOのコンセプトについて尋ねられると、

細野「ドイツのクラフトワークが本当に素晴らしかったですね、あの~、影響を受ければ受けるほど、真似ができないってのが分かってくるんですね、真似したらクラフトワークになっちゃうし、日本人としてなんかこう、太刀打ちできない何かを感じるんですよね、で、僕たちはそれを、鋼鉄のコンセプトって呼んでましたね」

クラフトワークとYMOを比較する細野さん。

細野「ところが僕たちは何を習ってきたのか?え~、邦楽のバックボーンは僕たちを支えてくれてないし、少なくとも僕はアメリカンミュージックばっかり聴いてきた、それは少しは役に立ってきてるけど、テクノにはあんまり活かせなかったですよね、で、本当に真剣に3人で考えて、僕たちは何なんだろう?と、そうすると、障子と紙とか、木でできている国なんだろうかな、鋼鉄じゃない、すごい薄っぺらい、東京っていうのはそういうもんだろう

ロンドンでそれを実感したと言います。

細野「なぜそう思ったか?というと、ロンドンで最初のライブをやったときに、終わったあとホールの外に出たら女の子が、イギリスの女の子、ティーンエイジャーですよ、追っかけてきたんです『キャー!』って、ふふふっ、で、ほっぺたにチューしてくれるんです、『キュートだ!』って言ってくれたんです、『えっ、僕たちキュートなんだ!?』ってそのとき初めて思いましたね、軽薄さがキュートなんだと、だからこれは卑下してるわけじゃなくて、東京の売りなんだ、っていうのはありましたね」

宮台さんのラジオのあとにこの番組を見直すと、YMOは東京(薄っぺらい・軽薄さ)をTOKIO(キュート)に読み替えるシャレだったのかな、と。そんな風に感じました。